IRODORI vol.02
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「高知県黒潮町、津波高最大34.4m」「震災前過疎」「実績0、ハードルの高い7大アレルゲン不使用の缶詰に挑戦」高知県西部沿岸の黒潮町。町が設立した缶詰工場の生い立ちは他社と一線を画す…東日本大震災発生の5日後、黒潮町から先遣隊が2名派遣され、後を追い大西町長(当時)は、支援物資の他、プレハブ小屋まで積載した車両で宮城県気仙沼市に向かった。カツオ船乗組員の親族など町関係者の安否確認と現地の情報収集のためだ。その時の活動記録の一部にはこう綴られている。  前略、   ここの被害はひどすぎる。津波はむごいことをする。  まだ多くのご遺体が収容されていないと思われます。  道路の啓開作業を進めていると  ご遺体が発見される、と市役所の方が言っていました。  住み慣れた町でこんな形で最後を遂げるのは、無念でしょう。  でも、これが近い将来の高知県の姿であることは、間違いありません。  残された時間は15年程度でしょうか。あまり時間があるとはいえません。  このことを多くの県民が知るべきだと思います。                          早々(一部を抜粋)東日本大震災から約1年後、政府は南海トラフ大地震が引き起こすであろう津波高、浸水域のシミュレーションを行い従来の想定を根底から覆す内容を発表した。平地 逃げ場がない。どんな手が打てるか。町が消えてしまう。町の存続すら危ぶまれる想定だった―――先遣隊として現地で活動した友永公生(ともながきみお)氏が語る。  東日本大震災の1年後に日本一の津波高34.4mの想定が出て、それから  黒潮町が本格的に防災対策をするわけなんですけど、逃げ場所がないみ  たいな話になって町中が混乱してしまいました。  避難をあきらめる方が出てきたり、危ない町だから、出て行くという方  が増えてしまった、というひどい状況になってしまいました。  津波が来たら足が悪くなったお母さんと一緒に死んでやるとか、そうい  うような会話が家庭でされるような暗い町になってしまったんです。早急に町は全職員を全地域に割り振り、全員を防災担当にしてソフト・ハード面の仕組みづくりをし、目標である「犠牲者ゼロ」に向けて町全体で取り組んだ。保育所、学校、役場をはじめ、町のいたるところで防災活動を進め、その後、約5年間で町民約10000人の町でありながら、延べ参加者数60000人以上の実績となった。この動きは今もなお継続しているというから驚きだ。昼も夜も、子どもも大人も、みんなが防災に取り組む町に変わっていき、小・中学校では義務教育で9年間の防災カリキュラムを組み、「人づくり」から目指すようになった。ハード面では、足場の悪い避難道を整備し、日本一の高さを誇る津波タワーなどを6ヵ所配置、役場も高台に移転した。こうした取り組みは数多メディアで取り上げられるばかりか、2016年には世界の高校生による「世界津波サミット」が開催され、さらに多くの注目が集まった。そして、黒潮町は団体では初の国土交通大臣賞「濱口梧稜国際賞」(注1)を授与されるまでになった。(注1)国内外で沿岸防災技術に係る啓発及び普及促進を図るべく、    国際津波・沿岸防災技術啓発事業組織委員会によって、2016年に創設された国際的な賞しかし、防災対策だけでは埋まらない問題点が浮き彫りになってきたという。実は、黒潮町は「日本一危ない町」という風評被害に悩まされたのだ。しかし、ここで黒潮町の個性が光る。この逆境をバネに、防災で産業興しに着手することを決めたのだ。「地域資源」=「食材」や「防災に取り組む姿」を活かす新しい産業創造。そのコンセプトには、ふるさとへの想いがあふれていた。  ツナグ × デキル WE CAN PROJECT  黒潮町缶詰製作所は、この町に元気の源と未来を作るために生まれました。  仕事をつくろう 仲間をつくろう 夢をつくろう  人に夢があるように町にも夢がいるんです  この町の夢をつくろう この町の未来をつくろう  僕らはこの町で生きてゆく 僕らの未来は僕らが開くこうして、株式会社 黒潮町缶詰製作所は町の第三セクターとして2014年3月11日、東日本大震災からちょうど3年後、着工から半年のスピードで操業開始、町の夢と未来を乗せて船出した。シンボルとなるロゴは、津波に立ち向かう意思を込めた、「34M」と記した三角旗にした。経験者がおらず、何もかもが手探り。よりどころは、設立前に被災地・気仙沼市で被災者から聞き取った言葉たちだった。「いつも同じもの」「栄養が偏り口内炎で食べる事もままならない」「食べなれない食へのストレス」「自治体が備蓄していた非常食や避難所に届けられた支援物資がアレルギー対応でなく、食事に困る人や誤食でアレルギーの症状が出てしまう人が相次ぐ」など。こうした現地でのヒヤリングを重ねていくにつれ、災害時の「食」に対する認識が変化し、創業当初から、商品づくりの礎になっているという。もう一つ、商品づくりの基軸があるという。それは「もしものときに、みんなで、おいしく、安心して」食べていただけるよう、食物アレルギー対応の缶詰をつくるということ。原材料に7大アレルゲンを使用しないのはもちろん、工場に持ち込まないようにした。また、不使用だけではなく、「日頃のおかずやおつまみに」「パスタやサラダにアレンジして」「非常食としての栄養源に」など、全てのシーンで活躍する缶詰を作る為、開発から有名シェフや栄養士が携わり、料理としての完成度にもこだわった。そのこだわりは「天日塩」や江戸時代から伝わる「黒砂糖」など、地元に根差した基本調味料を活かすこととリンクし、独自の味が表現できることになったそうだ。新産業が伝統産業とフィットし興味深い結果を生んでいるのである。現在20種類のラインナップがあり、ふるさと納税返礼品としても利用されている。決して容易ではなく失敗や挫折もあるが、日常でも災害時でも安心しておいしく食べられる缶詰づくりのため、今後も黒潮町缶詰製作所の夢と未来への挑戦は続く。黒潮町缶詰製作所https://kuroshiocan.co.jp/黒潮町で長年、消防・防災・災害担当を担い、東日本大震災の際は先遣隊として自ら現地入りした。黒潮町缶詰製作所の立ち上げでは町の産業推進担当として企画・構成から携わり、現在は黒潮町缶詰製作所に籍を置き、会社の経営全般に携わっている友永公生氏。取材の中で語っていただいた地元愛には、思わず聞き入ってしまうほどのインパクトだった。11僕らはこの町で生きてゆく 僕らの未来は僕らが開く

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